東京新聞2012年7月23日付が『教員養成改革 「修士レベル」は要らない』とする社説を掲載している。


 民主党政権および中教審が提唱している、教員養成を学部と大学院修士課程のあわせて6年制にする構想について、否定的な論調となっている。
 子どもへの愛情や情熱は大学院修了とは無関係、職場環境の改善が先決などと指摘している。教員が雑務に追われることで子どもと向き合う時間がなくなり、学校運営の評価制度が不祥事隠しにつながっているとし、「先生は教壇に立ってこそ鍛えられるのだ 」と結んでいる。
 社説の趣旨は全面的に同意である。理論に強い現場教員やまとまって理論を学びたいという教員はもちろん必要だが、現場の実践・子どもの現実に向き合うことこそが教員自身を成長させ指導力を深めていくことつながっていくのではないか。

教員養成改革 「修士レベル」は要らない
(東京新聞社説 2012年7月23日)
 力量のある先生をどう育てるか。中央教育審議会の特別部会は修士レベルの学びが必須だと結んだ。だが、それで学校現場の抱える課題をクリアできるのか疑わしい。頭でっかちの先生は要らない。
 特別部会の話し合いは結論ありきだった印象が強い。小中高などの先生になるには大学院修士課程の修了を条件とするという民主党の公約が出発点だったからだ。
 将来の学校教育はどうあるべきか。どんな先生が求められ、どう養成するのか。そんな素朴だが、肝心な問いに答えるやりとりは抜け落ちていた。
 グローバル競争社会にあって子どもの学力を向上させる。いじめや不登校、障害のある子にきめ細かく対応する。先生には高度の知識と技能が必要とされている。
 だから大学四年間に加え、実習を組み込んだ一~二年ほどの修士レベルの課程を修めさせる仕組みにする。それが特別部会が打ち出した改革の要点だ。理論と実践の積み重ねこそ優れた先生を輩出するという発想のようだ。
 しかし、それでは研究者の養成ではないか。専門職とはいえ医師や弁護士などとは違い、先生が向き合うのは繊細で未完の子どもたちだ。理屈や法則通りに物事が運ばない方がむしろ自然だろう。
 大津市の男子中学生の自殺問題では、教育委員会や学校が責任逃れや自己保身に躍起の様子だ。
 学校は「いじめのない学校づくり」を宣言していた。男子がいじめられて自殺したとすれば看板倒れだ。そんな論理と心理が、いじめを見聞きしたという子どもたちの訴えを封殺したのではないか。
 子どもへの愛情や信頼、そして教育への情熱を欠いては先生の仕事は務まらない。それは大学院で学んだからといって備わる資質や能力ではない。
 高学歴化を図るよりも職場環境の改善が先決だ。今の先生は雑務に追われ、子どもと触れ合うゆとりがない。山ほどの報告書を作ったり、めじろ押しの行事をこなしたりと枚挙にいとまがない。
 授業の計画や教材の研究、保護者面談や家庭訪問といった大事な活動は二の次だ。人事や予算を左右する学校運営の評価制度が先生を萎縮させたり、不祥事を隠そうとしたりする土壌となっている。そんな指摘がある。
 先生が生涯学び続ける姿勢は大切にしたい。だが、文部科学省のお手盛りにも映る「教職大学院の拡充」は必要あるまい。先生は教壇に立ってこそ鍛えられるのだ。


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