『女性セブン』2018年1月4・11日号が、「事前に親に体罰の許可をもらう「合理的スパルタ塾」の高実績」と称した記事を掲載したとのこと。

 この記事はウェブ版でも読むことができる。

https://www.news-postseven.com/archives/20171221_639003.html

 記事によると、当該の学習塾は名古屋市にある。『集賢舎しゅうけんしゃ』と称するこの塾では、「合理的スパルタ指導」と称して、生徒に「体罰」を含む指導をおこなっているという。

 記事では、事前に保護者から「体罰NG」「シッペまでならOK」「ビンタまでOK」を選んでもらい、それを受けた指導をおこなっていると記されている。

 塾の授業の様子が描写されている。数学のテストで、ある生徒が書いた答案の字が雑だったとして、岡田永吉塾長が「厳重注意、入試本番だったら無条件にバツだ、歯を食いしばれ」と言いながら平手打ちをしたという。

 塾長は「本人、親、第三者の誰が見ても悪いことについて体罰を含めた指導を行うのが『合理的スパルタ教育』」などとして、自分の行為を正当化していることが紹介されている。

どう言い訳しても「暴行・虐待」でしかない



 しかし本人や支持者がどう定義しようが、このような行為は暴行であり、虐待にほかならない。「合理的」でもなんでもない。法に触れる行為でもある。

 子どもに「体罰」や虐待での「指導」をおこなうと、脳が萎縮したり精神的な後遺症を残すなど、心身にも悪影響が出ることは、数々の研究からも科学的に指摘されている。しかし「体罰」を肯定する者は、肯定の理由は個人的な主観だけで、科学的知見に基づいたデータを出しての肯定論は見たことはない。

 「体罰」を正当化している人間は、自分は立場が絶対的に上なので「格下」からやり返される心配がない、やり返されないようにあらかじめ脅しをかけるという、上下関係と位置づけてのマウンティングを前提にしておこなっているとみなすべきものであろう。

 こういう「体罰」上等の論者は、万が一反撃された場合や、反撃とまではいかなくても暴力行為が社会的批判を浴びて不利になると、自分のしてきたことを棚に上げて被害者面するダブルスタンダードで振る舞うというのも、よくみられるパターンでもある。

 「本人、親、第三者の誰が見ても悪いことについて体罰を含めた指導を行う」ことが仮に正当化されるのなら、この塾長のところに「誰が見ても悪いことをしているから指導する」と称して殴り込みをかけても社会的に認められるのだろうか――これは「体罰」肯定派の主張の矛盾点を突くためのネタとして思考実験的に持ち出したものであるが、「体罰」肯定の論理を突き詰めれば、こういった冗談のような話も論理的には成立してしまうことにもなる。しかし、「体罰」肯定論者はこういうことは決して認めない。

 また、いくら親の許可を取ろうが、それ以前に「体罰」自体が暴力行為であり反社会的行為である以上、「体罰」の許可を得る行為も社会通念に反すると見なされるべきものである。子どもの人権を著しく侵害する行為となっている以上、組織内の自治に基づく裁量権という別の原則には当てはまらない。

子ども観・人間観が問われている



 記事で紹介されたこの学習塾の方針は、独自の教育方針の範疇に収まるものではない。犯罪的な暴力行為を公然と掲げていることにもなっている。

 「体罰」・暴行が「指導」という名目で大手を振るような現状は、早急に変えなければいけない課題である。

 子どもを一人の人間として、権利の主体者として扱うのか。それとも格下の扱いをするのか。そういった人間観が根本的に問われている。
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