2018年5月18日配信のウェブ版『現代ビジネス』に、内藤朝雄氏(明治大学准教授)の論説『日本の学校から「いじめ自殺」がなくならない根本理由』が掲載されている。

http://gendai.ismedia.jp/articles/-/55701

 福井県池田町の中学校で、生徒が自殺した事件。この事件は、背後に教師の不適切指導があったいわゆる「指導死」案件ともされ、また遺族は「遺族は、叱責ではなく『教員による陰湿なイジメであった』と理解しています」(『福井新聞』2017年10月18日)と訴えているという。

 この事件を踏まえて論じている。

「中和」の論理



 当ブログ筆者にとって目を引いたのは、加害者側の事件正当化について、「中和」という角度からの分析。

 犯罪社会学者のサイクスとマッツァが、非行少年たちの言い訳の内容を研究して分析・類型化した「中和の技術(Techniques of Neutralization)」という論文によると、自己正当化の類型として以下のような分類をおこなっている。

1. 責任の否定
2. 加害の否定
3. 被害者への拒否
4. 非難者への非難
5. より高い価値への忠誠心への訴え


 そしてこの「中和」は、池田町の事件だけでなく、各地で起きた「体罰」「不適切な生徒指導が問題になった事件」「教師の生徒いじめ」での加害者側や学校側、加害者教師の取り巻きの主張にも当てはまると指摘している。

 内藤氏は、各地の学校関係の事件を分析する中で、学校側や加害者支持者がおこなう主張は以下のように分けられると指摘している。

1. 責任の否定: 通常の指導をしていただけで、障害や死亡との関係はない。
2. 加害の否定: 教育的な指導をしただけで、加害行為をしていない。
3. 被害者への拒否: 先生の言うことをきかない生徒が悪い。あいつは学校の「みんな」や先生をこまらせるやっかい者だ(あいつの方が真の加害者だ)。
4. 非難者への非難: 教育のことを何もわかっていないよそ者が勝手に非難している。おまえは学校が嫌いなだけだろう。おまえこそ口をつつしめ。
5. より高い忠誠心への訴え: 学校業界固有の聖なる価値〈教育〉が、現代市民社会の根本価値とされる人間の尊厳より高い価値があるかのようなムードをつくる。そして、次のように、加害者を教育価値への忠誠者であると訴える。
これは「教育熱心のあまりのいきすぎ」であり、将来あるセンセイを寛大に扱うべきだ。(露骨に言葉にすると差し障りがあるので、みんなのムードを感じ取ってほしいが)われわれの本当の実感としては、わたしたちが共に生きる、うつくしい教育の形は、死んだり障害を負ったりした「不適応」生徒の命よりも尊い。


 この分析は当たっていると、経験的に感じる。

当ブログでの経験



 当ブログの筆者は、研究者や専門家を名乗るような立場ではない。ただの「教育関係のニュース記事を読んで、事件概要をメモし、感想を記したブログを書いているだけの個人ブロガー」というスタンスである。

 しかしそれでも、多くの教育関係のニュース記事に触れる中で、「体罰」「指導死」「不適切な指導」「いじめ」「教師による生徒いじめ」「教師が生徒に対しておこなった性的虐待」などでは、加害者や学校側を擁護する声の中に、上記5つのような一定のパターンがあることを、経験的に感じてきた。

「事件は嘘、冤罪、でっちあげ」
「叩くなどの指導はしたが問題視されるいわれはない」
「教師に逆恨みした被害者、およびクレーマー・モンスターペアレントの保護者が、マスコミと一緒になって騒ぎを焚きつけた」
「被害者とされる者はとんでもない不良生徒」
「事件報道は、加害者とされた教師への誹謗中傷・名誉毀損」
(部活動がらみの暴力事件だと)「成績が伸び悩んだことや、練習についていけなかった腹いせで、指導者に八つ当たりした」

――そんな嫌がらせ、マスコミ等の報道などを通じて、どれだけ多くの事件で聞いてきたか。

 そしてここ10年ほどでは、加害者側がネット掲示板やブログ・SNSなどで被害者側へ誹謗中傷をおこない不特定多数に広めるケースや、マスコミの事件報道に基づいて記載した個人ブログを恫喝して加害者側にとって不都合と思われる記述を消させようとするケースなどの事例もみられるようになった。

 当ブログも、加害者の教師本人や該当校の保護者などを自称したり、匿名ながらもそういう立場をほのめかす者から、脅迫めいたメールを送られたり、根拠が認められないような送信防止措置をプロバイダに送りつけられるなどの嫌がらせをされたことが何度かある。

 事件が問題になった際に非を認めずに居直る加害者側や学校側、そして加害者を支持する一部「保護者」「地域住民」の主張は、どの事例でも、確かに前述の5類型のような形になっていると感じていた。

 しかしその「中和」の論理は、社会的には通用しないと知るべきなのである。
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