「現代ビジネス」web版2016年1月26日付に、憲法学者・木村草太氏の論考『これは何かの冗談ですか? 小学校「道徳教育」の驚きの実態』が掲載されている。

 この文章では、広島県の小学校で使われている道徳教材を題材に、批判的に検討している。

 道徳教材では、「主人公の『つよし君』は小学校6年。運動会の組体操の練習中にピラミッドが崩れ、気が付いたら地面に落ちていて骨折していた。運動会本番には出られなかった」という設定となっている。ピラミッドが崩れた原因は同級生の「わたる君」がバランスを崩したため。「わたる君」は「つよし君」に謝ったが、「つよし君」は「わたる君」を許すことができない。「つよし君」のお母さんは以下のように諭した。

「一番つらい思いをしているのは、つよしじゃなくてわたるくんだと思うよ。母さんだって、つよしがあんなにはりきっていたのを知っているから、運動会に出られないのはくやしいし、残念でたまらない。でも、つよしが他の人にけがさせていた方だったらもっとつらい。つよしがわたるくんを許せるのなら、体育祭に出るよりも、もっといい勉強をしたと思うよ」


 木村氏はこの教材に異を唱える。

読者の皆さんは、この教材を見てどう思うだろうか。シッカリトシタ学校教育を受けたリョウシキアル方々は、「人の失敗を許すのは大切だ。これを機にクラスの団結力を高めよう」と思うのかもしれない。

実際、この教材の解説にも、「相手を思いやる気持ちを持って、運動会の組体操を成功に導こう」という道徳目標が示されている。教材の実践報告にも、「この実践後の組体操の練習もさらに真剣に取り組み、練習中の雰囲気もとてもよいものになった」と誇らしげな記述がある。そこには、骨折という事故の重大さは、まるで語られていない。」


 そのうえで、法的な立場から、「学校内道徳」のためなら法的な見地を無視するような対応に警鐘を鳴らし、「道徳よりも法学教育を」と訴えている。

 当ブログでも、この教材については、筆者の木村氏と同じような違和感を感じた。

 相手への思いやりや団結力など、それ自体を否定したり敵視するものではない。しかし問題は、「思いやり」「団結力」を口実に、本来は社会的な構造として問題点を改善すべきところから目をそらして個人的感情に矮小化させたり、何らかの被害や不利益を受けた人に我慢を強いるようなことは不適切だということではないか。

 組体操の教材の例だと、同級生の「わたる君」がバランスを崩したことだけが、問題のすべてではない。危険な行為を強いていた学校の責任こそが問われなければならないはずである。これは法的観点という意味だけではなく、教育指導の観点ということにも関わってくる。

 しかし教材では、すべてが「つよし君」の内面の問題に矮小化されている。

 このような教材は、理不尽な仕打ちを受けても声を上げて改善を求めることに対して否定的になる、不都合なことがあっても黙って従えという効果すら生みかねないとも感じる。道徳教育としてもあまりにも一方的ではないか。
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